身を置く場所は自分で選びたい
「置かれた場所で咲きましょう」論争。
岩盤アンチ派の私にとっては、書かないわけにはいかないでしょう。
今回はこの言葉が嫌いな理由を話しますよー。
なお、本投稿の題材は故・渡辺和子さんが2012年に著した著書
『置かれた場所で咲きなさい』からヒントを得ており、
・独自の経験を長年積まれてきた渡辺さんへのレスペクトは持っていること
・考え方は人それぞれ、そして意見と人格は別であること
・作品として優れており、それ故ベストセラーになっていること
をあらかじめ明確にしておきます。
その上で、私自身の考え方はどうやっても対照的になる背景を書き進めていきます。
1 きっかけ
最近この記事を見た。
【「置かれた場所で咲きなさい」と言うリーダーは無責任 必要なのは「便所のネズミ」話】
https://globe.asahi.com/article/14679867
(2022年7月28日更新、2022年11月5日閲覧)
企業の採用担当を経験した筆者が主張するロジックと経験談、非常にストンときた。
2 「置かれた場所で咲きましょう」の励ましは「卑怯」か?
・誰でも言える、軽い
・頑張らないことを正当化するな(身を置く場所を観察し、決定し、移動する努力を放棄しているように見える)
・身を置く場所は可能なら自分で選び、「決定」をすることが、できる環境にも関わらず、自分の居場所一つ「自分で決められない」人間に、部下や同僚の生活が懸かっている「仕事上の必要な決断」は率直に言って、無理だ
これらの意見が思いつくが、その先には
・決断を避け続ける同僚・上司に求心力はあるか?
・無責任な傍観者が「励ましているふり」をするのに都合がいい言葉では?
・そもそも努力ができる人間を「過小評価」していないか?
こんなのが湧き上がるのである。
「決断を避ける、やっているふりをする、その人を知らないのに誹謗する」
直接的な表現なら、人はそのような評判を回避しようとするだろう。
耳障りが良ければ「回避の必要性」自体を過小評価しかねないのである。
3 相手の人生に責任を持つとは?
最近考えさせられることがあった。
様々な繋がりを得て、ハンディはありつつも、目標を目指している友人に、かつて自分が資格試験の際に使った問題集を渡した。
目標を達成するための道具、を渡したのだ。
昔ボランティア活動、学生の学費を支援する活動に携わっていた時、「夢だけ見させて、近づいたときに奪う」ことこそが、最もやってはならないという趣旨のことを重々言い聞かされていた。この場合、「進級の支援を毎年進めてきたにも関わらず、最高学年・卒業間際の年だけ支援を断念する」という意味を指す。
そしてそれが日本の支援団体側の「自己都合」であるならば、非難されて然るべきだし、日頃は私達の活動を応援していた周囲の人も、活動メンバーにその姿勢が見られた際には厳しく叱る場合が時としてあったことも事実だ。
上に述べた「ハンディ」を
・仕方ない
・しょうがない
・与えられた条件で頑張ってほしい
…これしか言うつもりがないのであれば、何か物を、「目標を見させる」手段で渡すべきではない。
だが、
・そこに目標を持っている私たちと同じ人間がいて、
・その一助となる道具を私が持っていたから渡した
以上、それ以外のことをやる必要がある。
不条理には必要な声を出す必要があるのだ。陰でしか応援できないのであれば、それは応援ではない。
4 生きる場所を変える「努力」とは?
本題に戻ろう。
そう、「置かれた場所で咲く」という「生きる場所を変える「努力を否定する」」ニュアンスこそが、私には好きになれない理由だ。
私は
・家族との同居
・公務員偏重の職業観
・定年までの勤め上げ至上主義
・地元で家を守る
・人と合わないと思ったら関係を清算する
等々、物理的な場所や価値観を「動かす」経験を一定程度してきている。
時々でエネルギーも使ってきた。
それを「やらないことを正当化し、さも「正解」であるかのように発信する」
これが「少なくとも私は嫌い」の理由だ。
更に言えば、
・やらない悔いよりやる悔い
・やらないこと選ぶ迷いよりやること選ぶ迷い
が日頃の意見なので、どうしても私の意見と「置かれた場所で咲くこと」という言説は
相容れないのである。
変化を自ら起こす人物は、
・手放すことも多いかもしれないけど
・見つけてつかめる
ことも多い。それは僅かながらだが、証明してきたし、今後も証明していきたい。
どうでした?
ズシッときたかもしれないけど、私はこれまでの長き、これからの長き双方、これは問い続けたいし、問い続けられないと「軸がなくなる」以上、心を落ち着ける意味でも必要な文章化でもありました。
長文、お付き合いいただきありがとうございます。
それではー。
抗議活動のカジュアル化・多様化は共感を遠ざける?
こんにちは。
本日はこのテーマについて。
【構成】
・抗議活動参加歴・抗議についての基本的な考え方
・題材としての記事
・抗議活動のカジュアル化・多様化について思っていること
・一部の過激な抗議活動をどう思うか
1 抗議活動参加歴・抗議についての基本的な考え方
<抗議活動参加歴>
・合計すると全部で4回ですね。
・時々で物議を読んでいる法案制定に対しての、抗議活動参加です。
<声を上げるということ>
・抗議活動に参加している以上、権利としての抗議活動を否定はしない立場です。
・「声を上げれば何かが変わる可能性」はあると思います。
・ただ現状、上記目標を達成している抗議運動は少ないと思います。
2 下記資料を確認後思ったこと
<題材>
https://youtu.be/lAHR4r-9ZsE
・こちらは、物議を呼んでいるひろゆき氏の、沖縄基地問題関連のツィートを題材とした番組です。
・全部見た後思ったのは、「この先に何が達成できるのか」「言ったら言いっ放しの試みになりそうだ」という点です。
・抗議活動は、目的達成のために行われる活動なので、目的達成に近づく動きに繋げる情報発信であればと思います。
・「ハンガーストライキ」についての話が途中ありました。
これは確かにと思う視点です。関心柄、情報に接しているのですが、本当にハンガーストライキという手段で訴えている人は命の危機と隣り合わせ、「他に訴える手段を持っていない」状況で行われていることを知っています。なので、短時間・短期間のハンガーストライキを実行し、「行動したつもりになる」ことには気を付ける必要があります。ハンガーストライキ以外の手段を実行できる立場の人は、可能な手段を駆使して自分たちの訴えは届けるべきだと思います。
3 抗議活動のカジュアル化・多様化について
・「怖い人たちの運動」と思われたくないからか、昨今「親しみやすい」デモ活動が潮流になっています。
・なので、元は単一テーマの社会課題であっても、規模拡大に伴い様々な運動を取り込んでいる傾向がみられます。
・私はこの潮流には、下記の点で反対です。
1 争点がぼやける
分かりにくくなります。
2 成果を出す前から突破力が鈍る
抗議活動の主たる目的は「現状を変えること」です。
多角化は、一つの、元のテーマで何か今の状態に変化を起こす「成果」を
得てから実施すべき、という考え方です。
多角化すると力点が分散すると思います。
4 抗議活動の過激化に対する抗議者からの視点
・抗議活動参加歴があるので、「穏健な抗議者」の立場です。
・過激な行動を取る一部の運動家と「同じにはされたくない」ですね。
・では迷惑だと言ってはどうか?先日国葬反対運動について批判する記事を書きましたが、直接運動している人に意見を言おうとしても、話が平行線だったり、説得を通じて取り込まれることに対してのおそれがあるので、思うところがあってもなかなか本人達には意見を話せないですね。平行線に留まることが分かっているので、労力を割かずに自分の意見のまま次の段階に向かう、というのが正直なところです。
以上、私なりに意見を書いてみました。
ではでは。
国葬反対運動についての備忘録
こんにちは。
市民運動には比較的共感する方だと、私なりに思っていましたが、今年の7月以降の「国葬反対運動」は、最終版の9月下旬、国葬儀当日の9月27日を迎えても「共感」をすることができなかったです。
今の時点での
死生観
その上での市民運動観
について明確にしたく、記録に残しておきます。
1 本来なくなった方をあれこれ言うのは性分ではない
私にも家族を見送った経験があります。
生前、仲がいいとは言えず度々衝突もしましたが、なくなってしまえば尊厳を持って
お見送りしたい…これは自然な感情だと思います。
事が起き、彼が非業の最期をとげた7月8日。
確かに私は「暴力で口をふさぐことがあってはならない」と発信しています。
その時から、死生観に一貫性を持ちたいと思えば、一方的に彼の生前の功罪を
責め立てるのは、いかがなものでしょうか?
彼はもう反論することも正当な説明をすることもできなくなっていた。
その時点で、狙いを彼に定めるのはおかしな話で、厳しく訴えるとすれば残された者であって然るべき。あれこれ言うなら残された者に対して。
そしてやはり、遺族経験者としては、安倍昭恵さんや残された安倍家の皆さんのことを思うと、一度身内でお見送りをしたとは言え、異なる形であってもきちんとお見送りをする場は安全かつ静かな形で保たれるべき。
これを邪魔する運動は人としてどうなのか?という意見が消えませんでした。
いや、これからも、正当な市民運動を肯定したいと思えば、消してはならない意見だと思います。
2 生きて動いている社会課題に目を向けてきたのか
生きて動いているのは、一連の霊感商法被害への対応でしょう。
一連の経緯の中で、日の目を見なかった宗教2世・3世の問題に光が当たったことは良かったです。
ですが、与野党を問わず、過去に関係が明らかになったとして、議員を連日つつくのはいかがか。これから関係を絶てばいいと思います。いくらつついても過去は変えられません。
居直るのならともかく、「これからは対応する・気を付ける」と言っている私たち国民の代表者に対する批判のやり方は、賛成をすることができないです。全員を追い込んだとして、後を受ける人はすぐに集まるのですか?
そして、この間、報道は一連の問題一色。
その他多数の政策課題についての報道は、脇に追いやられたと言わざるを得ません。
同じような時間帯に同じような報道をするな。
電波の無駄遣いだ。
生きて動いている政策課題は、これから変えられる政策課題だ。
そのことに慎重であるならば、「一連の報道があるから他の課題の報道を減らす」というやり方は、安易にはしないと思います。
3 何を守りたいのかが不明
結局この市民運動は、何を守りたいのかが不明でした。
はっきり言って他の市民運動にも悪い影響を与えたと思います。
支持されなくなるのです。
一緒くたにされるのです。
私は他の分野で市民運動に携わっている政策課題あるけれど、混ぜられたくありません。一緒くたにされたくないので、国葬反対運動からは距離を置いてきました。
無害だったら距離を置くだけだけど、最終盤にかけての運動のやり方は、生きて動いている多様な政策課題に取り組んでいる人の目線で言っても、されたくない市民運動のやり方、報道のされ方です。この時点で、現在進行形の社会課題に向き合った運動とは思えませんでした。
当該政権の功罪は、たくさんあります。
私も彼の政治手法には賛成していませんでした。
しかし、今更叩いて、そして彼が政策を改められるのですか?
そうであれば、私も賛成します。それはもはや、できる話ではない。
功罪を正し、いい政策を守る、という視点を、得ることができなかったのです。
市民運動への共感を守っているようには見えませんでした。政策是正の視点を守りたかったのであれば、少なくとも今は政策を改めることができない人をこれほど誹謗することはないでしょう。
4 その他
一連の国葬反対運動。
賛否はあるけれど力を使った人に対する態度ではない、と言いたいのです。
過去に生きているのは、考えの古い政治家の方ではありません。
過去を叩いて満足し、現在とこの先に着目しようとしていない方です。
私は国葬はきちんと行い、そしてきっちり今月から切り替える。
そういう考え方を持った市民運動を応援したいです。
元々7月から、国葬反対運動に賛成はしていなかったのですが、他の市民運動に対する
今後ネガティブな影響が多過ぎ、黙っていられなかったので記録として残しました。
そのエネルギーは、「生きて生活している人間の生活を脅かす政策」に反対する運動に対して使え。
たくさんあるぞ。これが一番言いたかった。
参院選の後、本来はじっくり進めるべき先送りできない課題
少子化
気候変動
移民・難民
憲法
について、これらは小手先の選挙受けで何とかなる政策課題ではないぞ。
騒いでいた約2カ月、一連の運動はどれだけこれらの問題を語った?
足りないんです。他にやることがあっただろう。
にもかかわらず低調な議論に危機感を持たない。
国葬反対か、賛成か、二者択一を迫る。
これでは市民運動は、これからも共感を得づらいままのように思います。
そんなに市民運動は単純ではない。
色々と吐き出しましたが、本心であることも事実です。
区切りがあってしかるべきなので、「市民運動本来の在り方」にて、10月以降は声を届けて頂きたい。
長くなりました。ではでは。
移民・難民の学生のメンタルヘルス
移民・難民の学生のメンタルヘルス
こんにちは。
昨日9/17(土)にご縁を頂き、移民・難民の子ども・学生の心理について研究されている友人と話す機会を得ました。共通の友人からの紹介でした。
1 自己紹介
友人からは、
・大学で紛争後教育と接点。社会人を経て再度大学院に進学。
・JAR(難民支援協会)主催の「難民支援アシスタント講座」受講。
・論文のテーマを決め、協力者を募っている状態。
・教育と臨床心理、移民・難民を組み合わせた分野で、世に発信したいことがある。
というバックグラウンドを話して頂きました。
私からは、会社員の立場ながら、難民支援団体の応援を6年前から続けていること、元々の国際協力への関心のきっかけ、中学生~高校生の時期の経験は記憶に残りやすい等の話をしました。
2 研究の話
・中学校~高校における学生の心理と進路選択
・日本語学習環境及び、日本語教員・心理専門職の待遇
主にこの2つを話しました。
【中学校~高校における学生の心理と進路選択】
私は自身の経験上、進路選択が不可抗力で制限された時に、移民・難民の立場であっても私たちと同じように、心理的に不安定になってしまうと考えています。
なのでこの時期の心理支援は重要という話で、両者とも意見が一致しました。
学校だと、最も重要な窓口は担任の教師になりますが、昨今、教員の過酷な労働環境が問題になっています。心理職・カウンセラーの立場だと、外部から学校に入ってきて生徒のケアをする機会もあるので、「チーム学校」でより良い状況を目指したいという趣旨の話も聞かせて頂きました。
【日本語学習環境及び、日本語教師・心理専門職の待遇】
「言語習得は必要だが、担い手の日本語教師の待遇がよろしくない」という話題から始まったこの分野。身近に日本語教師を目指す人がいる友人からも、現役で生活していくには不安定との見解を聞きました。ご専門の心理専門職も同様で、高給・薄給ピンキリだそうです。
これらの役割を、勧める立場になったとして、高給の可能性があったとしても薄給の可能性が高ければ、すんなりとは勧められないので、「改善していけるといいな」という形で、議論が進みました。
3 これからの話
友人が研究の中で行うインタビューで、受け手との関係性を重視しているということが確認できました。
難民支援団体を応援する立場としては、「研究のみ行う」スタンスではなく、「研究を通じて繋がった人との関係性を大事にする」というところを確認したかったので、今回時間を取って頂きました。
私には支援団体の当事者で、直接移民・難民の方と接点を持っている友人がいるので、これから、研究者としての友人を紹介していきたいなと思っています。
難民認定申請者のメンタルヘルスは、対策が後手になりがちな分野です。
研究テーマの発信が、状況の改善になるといいな。
対談で話題に出た団体、URL載せておきます。
・RAFIQ(在日難民との共生ネットワーク)
・難民支援協会
・さぽうと21
以上、引き続きよろしくお願いいたします。
国葬反対運動に思うこと
こんにちは。
一時よりは元気になったのと、思うところがあったので、今日は書きますね。
現在、普段からお世話になっている市民団体の方、著名なジャーナリストの方の多くが、安倍元総理の国葬反対に賛同しているようです。8/31には大きな反対集会もあったようですね。
喪主を2回やった人間として言います。
人の死をけなして楽しいか?
彼なりに、志はあったと思います。
私は、このような政権批判の在り方には、賛同をすることができないです。
そして、ご本人たちの知らないところで、いがみ合い、罵り合いをすることは、
残された身内・親族が望んでいることではないと思います。
本当に「これまで」を批判したいのなら、残っている者が「これから」を作るべき。
異なる価値観で、「これから」を、きちんと作り上げることこそが、反対の意見を届けたいのであればやるべきこと。
市民運動が思うように共感を得られていないのは、そういうところなんだと思います。
人として、弔事は静かな気持ちで偲びたいと思いつつ、現存する社会課題にはきちんと改善策を見出したい、と思い、行動を試みている人間として、昨今の情勢は…。
はっきり言って、足を引っ張られている想いです。
なぜ止める動きに気を取られる?
止めて、満足?
自戒を込めて言いますが、今回の国葬の件ではありませんが、ここには昨年の大きな大きな反省があります。
その話は「これから」に譲りますが、中心の思考が、「止める」に留まっていては、だめだ。「作る」の思考を作ろう。
ズシッと重い話題でしたが、私としてもこれ以上、意見を曖昧にしておくわけにはいかなかったので、率直に思うことを書いてみました。
引き続きよろしくお願い致します。
クラファンは何が起きるか分からない
こんにちはー。
ご無沙汰していました。
昨日11/30(火)に最終日を迎えた、とあるクラウドファンディングに少しだけ応援をさせて頂きましたが、そのことで思ったことがあったので。
1 スパート力
クラファンでよく言われる、「ラストスパート力」。
把握していた感覚はありましたが、威力を再確認。
目標金額 :250万円
実施者 :個人
最終日2日前:100万円未満(40%未満)
結果 :締切1時間前に達成(2日で60%追い上げ)
なかなかのスパートでした。
達成の一報を深夜に聞き、ほっとしました。
ほっとしたのには理由もあります。
2 繋がり
私事ですが、実施者が、2年前(2019年)頃、個人的に非常にお世話になった方だったので、気が気ではありませんでした。
看護の仕事をしつつ、夜は関西方面の飲食店の仕事もされていた友人ですが、
そのお店に通って楽しい話色々していたのが当時の自分達でした。
それなりに話し込む時もあったし、関西離れるとの知らせ聞いた時も、できる形で
送り出したいな~と思って、友人と画策して「サプライズ送別会」を開いたことがあります。
その後、元気に過ごしているかなあとは思いつつも、連絡を取るとかの接点がなかったのですが、今回は応援することにしました。
3 挑戦するのはどこまで行っても人物である。
個人、250万、ALL or NOTHING 形式。
これは、中々シビアな条件です。
クラファン慣れしている訳でもなく、手探りの挑戦だったようです。
私は諸経緯から、クラファンに挑戦する友人のプロジェクトページを確認することがあります。「けちな買い物客」目線で率直な意見を、コメントすることが多いです。
「お金には限りがあるからすんなりとは出せないけど、別の形で貢献できれば…」という動機があります。
今回は個人に対する応援でした。
一方、組織で主催するクラファンであっても、そこには「担当者」がいます。
「その人を応援したい」と思えるかで、熱の入り方って違うような気がします。
4 進捗の見せ方
制作系のクラファンでしたが、金額だけではなく、「制作予定物が、現在の応援金額でいくつできるか?」を明示する見せ方だった点も、一見していいなと思った点なので、挙げておきます。
表題の通りですが、最後まで何かする、これができる人物・組織が、目標を達成しやすいということをお伝えしたいと思います。
件の友人の制作活動、これからが本番なので引き続き応援しつつ、本日はこの辺りで。
ではでは~。